スペシャル対談

演劇2020.12.21

横浜

横浜で身につけた価値観。演劇が伝える時代の片鱗を見つめて。

劇作家・演出家/若葉町ウォーフ代表佐藤信さん

演劇作家/小説家/チェルフィッチュ主宰岡田利規さん

表現者。

混沌とした社会に対し、時に明るく、時に厳しく、そして時には静かにただ寄りそいながら、未来に向けた思想を体ひとつで問い続ける芸術家たち。

文化芸術にも力を入れる横浜市だが、それらの施策はアーティストたちからどのように見えているのだろうか。演出家として国内外の垣根を超えた多彩な実績をもち、現在は「若葉町ウォーフ」の代表でもある佐藤信さんと、横浜出身で世界各地へと活動を展開する劇作家で演出家の岡田利規さん。演劇界を独自の視点で歩み続ける二人の表現者に聞く。

舞台は横浜・東京・世界へ。

佐藤さん:岡田さんは今どこで活動してるんですか?

岡田さん:今はドイツです。ベルリン自由大学という国立総合大学の客員教授としてワークショップをしています。僕のワークショップはいつどこにいても同じで、まず自分の住んでる家、もしくは前に住んでいた家がどんな場所かをみんなに話して、みんなは思い描くことから「動き」を生み出していくワークショップです。

どんな情報から何を想像し、また体をどのように動かすか見る。さらにだんだん動きを誇張させて変化していくワークをします。ここでは毎回、6〜7人、週に2回、という僕にとっては恵まれた条件でありがたいですね。快適で楽しいです。来年2021年には日本に帰る予定でいます。

佐藤さん:素晴らしいですね。ご出身は横浜ですよね?

岡田さん:そうです、南区で生まれ育ちました。

佐藤さん:ぼくも岡田さんの上演を観に行ったりしてるけど、何よりも岡田さんの名前を記憶したのは、野毛山の「急な坂スタジオ」の命名者が岡田さんだと聞いた時でした。

岡田さん:あの時ディレクターをされていた相馬千秋さんに「なんかいい名前はないかな?」と頼まれまして。相馬さんはもっとかっこいい名前を期待されたようなんですけどね、でも初めて来る人には事前に覚悟してもらえる方がいいと思ったんですよね。

佐藤さん:本当にすごい坂ですよね。ぼくは最初、講演会に呼んでもらって行ったんですけど、本当にものすごい坂で息が上がって、でもあのスタジオ名を聞いてるもんだから、ぜーぜー言いながらも納得させられちゃいました。あれがもしもかっこいい名前だったら、もっと頭にきたと思いますね(笑)

演劇活動を始めたのは横浜からだったんですか?

岡田さん:演劇を始めたのは慶應大学の在学中でした。日吉キャンパスの劇場を居場所にしていたのですが、卒業してからも演劇を続けたかったので、横浜の相鉄本多劇場で旗揚げしたんです。あそこもなくなってしまってもう随分経ちますね。

佐藤さん:東京じゃなかったのは何か特別な理由があったんですか?

岡田さん:横浜の実家に住んでいたということも大きかったんですけど、東京ってなんだか、群雄割拠感が否めなくて。横浜には少しゆるさがあるんですよね。

佐藤さん:そうだね、東京には確かにそういうところがあるのよくわかります。ぼくの場合は東京で始めるしかなかったんだけど、やはりそういうところが嫌になってテントで旅するスタイル(劇団黒テント)を始めたようなところもありますね。

岡田さん:黒テントはどのくらいされてましたか?

佐藤さん:20年ですね。1970年から90年まで、全国120箇所くらい行きました。時代としては、日本の高度成長からその停滞する頃にあたり、全国の街でずっとウォッチすることになりました。

岡田さん:それはすごい観察の蓄積ですね。

佐藤さん:本当にそう思います。特に、テントの場合どうしても移動が車になるので、どの街にも「裏側」からお邪魔する感覚になります。駅で電車を降りて正面玄関から入るのとは違い、裏からだからこそ見えるリアルがあるんです。同じ街でも前回との違いもわかりやすかったり、また、時代が厳しくなっていくにつれ街がどんな風に壊れていくかというのを見ることもできました。それが90年代に入ると、ショッピングモールが増え始めて、それからはもうどの街も、入り口が似てる雰囲気をもち始めましたね。

岡田さん:その頃横浜でも公演していましたか?

佐藤さん:横浜でも色んなところでしましたね。港の近くとか、あと、空き地みたいな公有地を使わせてもらったり。横浜市が主催して招いてくれたこともありました。今の港北ニュータウンのあたりとか、その頃はまだ草っ原だったんですよね。

街と時代の変化に並行

佐藤さん:岡田さんが横浜で始めた演劇は、どんな風に今につながったんですか?

岡田さん:相鉄本多劇場で旗揚げした後は、西口のSTスポットを拠点にし始めたんですけど、あの頃のSTスタジオではコンテンポラリーダンスという、いろんな体を使う実験的なことをやっていたんですね。それは結果的に僕にとってすごく大きな意味につながっていて、あそこでダンスに出会えたことが今の活動にも影響しています。

あのとき、ダンスにおける体の使い方にとても深い面白さを感じたんです。それと同時に、演劇だって体を使っているはずなのに、ダンスのような面白い体の動かし方ができてないことを感じて、演劇をする人間としてある種の劣等感に近い気持ちも感じたりしました。「でも演劇だって体を使ってるんだから、同じように面白いことができるはずだ」って考えて、そう思えるようになった経験がすごく大きかったですね。

演劇というよりも、演劇をする時の体を凝視するような、そういうことを心ゆくまでできた場所です。そんな経験を経たおかげで、東京など横浜から場所を変えてもできるようになったし、あの頃の経験は横浜で得たことのひとつだと言えます。

佐藤さん:その後はどんな場所に変わりましたか?

岡田さん:あの頃コンペで選ばれる「ガーディアン・ガーデン演劇フェスティバル」という、登竜門と呼ばれている演劇フェスティバルがありました。僕は2003年のイラク戦争のときにすぐに『三月の5日間』という演劇を書いて選んでもらい、その時は天王洲のアートスフィアで上演しましたね。

佐藤さん:『三月の5日間』も本当に素晴らしいお芝居でした。ぼくも実は『三月の5日間』は何度も学生たちと一緒にやらせてもらったんですよ。

岡田さん:ありがとうございます。ありがたいことに『三月の5日間』が岸田賞をいただいて、そこから海外に行くことが始まったり、一つの作品を何度も上演したり、ツアーに行くようになりました。また、海外のフェスティバルからコミッションをいただいて作品を作るような活動もするようになって、自分たちの稽古場みたいなところが必要だと思っていた時に「急な坂スタジオ」ができました。そこに入れてもらえることになったのが、2006年かな。僕にとっては絶妙なタイミングでしたね。そのあと最初のバンクアートができて、少し時間が経ってからKAATもできて、横浜にも色んな劇場施設が増えましたね。

僕の場合は、自分が演劇活動を展開させた時期と、横浜市が舞台や文化芸術を施策に反映し始めた時期が重なったこともあって、ありがたいことに、何だかいつも横浜が関わってくれたような感覚もあります。

ふつうの行為である演劇

藤さん:そのあと拠点を熊本に移したのはどんな理由だったんですか。

岡田さん:直接的な理由は東日本大震災ですが、これはあくまで住居のことで、演劇の拠点を熊本にしたというわけではないんです。それに、東京ではなく神奈川にいたからこそできたことだとも思っていて。自宅がどこでも活動できるという感覚があって、さらに、都内の密集した中で過ごすことが少しずつしんどくなり始めてもいるときでした。

佐藤さん:プライベートを含めて東京から離れたのは正解だと思います。だって色々おかしいことが多い気がするもの。今のコロナもそうだけど、これまでのような東京中心とした価値観の中には、すでに限界がきてる部分もあるし。その前から根本的に変わったこともあるし、もう終わりにするべきことなんかもあるように感じますね。

岡田さん:そうですよね。佐藤さんは僕よりも長くその東京一極集中主義の限界を見て感じることがあるんだろうなと思います。しかし、この偏りいまだに生きながらえてる状況をどんな風に見てらっしゃいますか。

佐藤さん:ぼく自身はもうこの20年くらい、日本や東京の中で芝居を作ってる意識がないんですよね。マーケットへの興味が薄いのかもしれませんが、元々自分のことは自分でやりたい性分ていうのもあります。

本当は今の「若葉町ウォーフ」みたいなことはもっと早くはじめたかった。でも黒テントを始めたときみたいなしっかりした明確なイメージが描けずにいたもんだから、遅くなっちゃったんですけど。

ぼくは演劇をもっと普通の、当たり前のものにしたいと考えています。大掛かりの演劇もいいんですけど、それとは別に、もっと普通に行われている行為である演劇をしたいなって思っていて。こういうことは周りの日本の演劇をやっている人たちとは違う考えだし、東京の演劇にいるって考えはあんまりないんです。

でも演劇って、そもそも型にはめる必要もないし、一人ひとり違うものでいいと思うんですよ。テントで演劇を見てもらうと、観客の中には生まれて初めて演劇を見る人もいるんですけど、そんなことは全然関係なく演劇は成立するものですし、ぼくにとっては別に、何か目の前のものをどうするかが演劇の重要点ではないんですよね。

変わりゆく時間に、見えてくるもの

佐藤さん:岡田さんにとって、若葉町や黄金町はどういう思いがある場所ですか?

岡田さん:僕が子どもの頃といちばん変わったのは伊勢佐木町商店街ですかね。昔はあの通りに映画館もたくさんあったし、親につれていってもらったり、少し大きくなってからは自分で行ったりとしていました。当時はそれこそ、ハイカラ、っていう言葉を体現しているような雰囲気だったんですよね。でも、今の伊勢佐木町もすごく面白い。この変化は、廃れた、というのとは全然違くて、なにか完全に新しい方へと舵をきっている感じで、いいですよね。大岡川も変わったな。昔はすごく汚くて臭い川でした。びっくりするくらい綺麗になりましたよね。高架下も面白くなって、バザールとかも始まって、本当に変わったなぁと思います。

佐藤さん:ぼくも昔、横浜に来るたびに「横浜の下町ってかっこいいなぁ」と感じたりしました。浅草とはまた違った良さがあったのを覚えてます。

「若葉町ウォーフ」はまだ3年ですが、ぼくもこの街の変化を見ていて、まだどこかにエネルギーが隠されてるような気もしてますね。ぼくは動いているものが好きで、自分が動くことも含めて、動くってすごく大切なものだと思っているので、自分の生きてきた演劇の集大成みたいな、演劇フェスティバルがつくりたいと考えてるんです。できたら、若葉町とかで、距離が近くて、仮設で構わないので良い会場ができたらいいなって考えてるんです。

岡田さん:いいですね。若葉町のあたりも今すごく面白い感じの雰囲気になってますよね。演劇には観客という存在がいて、当然みんな別々の人なんだけど、その時の観客ってひとつの有機体みたいに感じられて、その日その場所の文脈に入り込むし、やはり観客がいるから上演が良くなりますよね。

佐藤さん:本当そう思いますよ。観客の空気帯は芝居に大きく影響を与えますよね。

ぼくはたまたまここ横浜で草履を脱いじゃったんだけど、この3年でだんだんこの場所で作っていきたいものがわかってきた感覚があります。一度フェスティバルっていう案が浮かんだら、じゃあ滞在できるところがあるといいな、とか。あるいは、海外でやってきたような滞在型のワークショップにするのもいいかもしれない、とか。

岡田さんの『三月の5日間』で伝えていることもそうですけど、根本的に変化したことに気づかないでいたことが蔓延してきたことをちゃんと見据えたいですね。今年の新型コロナのこともあって、時間の尺度みたいなものを考え直して、しっかり作りたいですね。

取材・文 / やなぎさわまどか

劇作家・演出家/若葉町ウォーフ代表佐藤信さん

1960年代半ばからの日本の小劇場運動の中心的な担い手のひとり。幅広い分野の舞台演出の他、演劇と社会の境界をめぐる積極的な発言と実践をつづける。近年は近隣アジア都市との舞台芸術のオルタナティヴ・ネットワーク形成に力をそそいでいる。現在、若葉町ウォーフ代表、座・高円寺(杉並区立杉並芸術会館)芸術監督を務める。

演劇作家/小説家/チェルフィッチュ主宰岡田利規さん

1973年横浜生まれ、熊本在住。活動は従来の演劇の概念を覆すとみなされ国内外で注目される。2005年『三月の5日間』で第49回岸田國士戯曲賞を受賞。2007年デビュー小説集『わたしたちに許された特別な時間の終わり』を新潮社より発表、翌年第二回大江健三郎賞受賞。15年初の子供向け作品KAATキッズプログラム『わかったさんのクッキー』の台本・演出を担当。2016年よりドイツ有数の公立劇場ミュンヘン・カンマーシュピーレのレパートリー作品演出を4シーズンにわたって務め、2020年『The Vacuum Cleaner』が、ドイツの演劇祭「Theatertreffen」の“注目すべき10作品”に選出。
写真:©宇壽山貴久子